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イスラエル・パレスチナ自治区での息苦しい巡礼地巡り

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Byほんたべ

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アヤ・ソフィア入ってまっすぐの正面のマリア様とイエス様の宗教画。
ちょうど祈ったときの目線のあたり、見上げると我々を見守っていてくださる、的な
場所に書かれている。望遠で撮ってるので近いけど実は数十m上空。

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マリア様とイエス様、洗礼者ヨハネのフレスコ画。あちこちにさまざまな宗教画が残っていて、
美術品を大切にしたのかどうか、剥がさずに上塗りしたオスマン帝国メフメト2世エラい。
壊されていれば後世のわたくしたちがこの絵をみることもなかっただろうから。

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修理中でホール全体の写真がうまく撮れなかったけど、入るとその荘厳さ、デカさ、お金かかってる感、
そのようなお金をかけてもこういったものを作ろうという信仰心かなにかに圧倒される。
入れ物をつくるとそこに人々の信仰心がひとつずつ積み上がって、聖なるものになるのかも。



オリーブオイルとデーツの産地を見に行くついで、と行っては失礼なのだが、
キリスト教などの巡礼地にも足を運んだ今回の旅で、宗教について、
仏教徒であるわたくしと一神教の人々との違いをしみじみ考えてしまった。

ということで、しみじみ考えてしまった理由はもろもろあります。
基本的には心がねじ曲がっているからではないかと思いますが巡った順に書きました。

1.アヤ・ソフィア寺院

現時点では観光地だが、オスマン帝国時代はモスク、その前はキリスト教の寺院だった。
モスクに改築された際に壁に書かれた宗教画を傷つけることなくそのまま残したため、
今なお美しいそれらの絵を見ることができる。オスマン帝国のメフメト2世が寛大なのか、
イスラム教が寛大なのかはわからない。でもなんとなくイスラムの寛容さかなって気がする。

現在も稼働している宗教施設ではないため巡礼地ではないと思ったが
Wikipediaにアヤソフィアも巡礼地と書いてあったので載せてみた。
壮大な建造物とそれを彩るさまざまな装飾品に、宗教の偉大さをしみじみ感じる。

2.エルサレム(聖墳墓教会・嘆きの壁)

小学生の夏休み、日曜学校にしばらく通っていた自分としてはエルサレムは聖地である。
自身は真言宗なので巡礼地といえば高野山か、あるいは四国48箇所とかだろうか。

エルサレムには聖墳墓教会と嘆きの壁と岩のドームという3大宗教の巡礼地があり、
わたくしたちは岩のドームには行けなかったが、行かなくてよかった、という気もする。
とくに嘆きの壁などは異教徒感が満載で、そこにいるのも写真を撮るのもはばかられた。

どの巡礼地に行っても驚くのは、涙を流している人、心から感動している人、
経典を読む人、歌を歌って何かを祝福している人などがいることである。

これは言ってみれば、高野山で歌を歌うとか感動のあまり泣き出すとかだろうか。
高野山には過去何度も行ったが、一度もそんなことにはならなかったし、
試験に受かりますようにとか自己中心的なお願いばっかして、
深夜ツアーにつれてってくれたお坊さんに「努力しないとね」とか諭されたりしたもんだが、
エルサレム他の巡礼地に来ている人々にはそういう自己中心的な感じはまったくなく
神の足跡がある土地に来られて感動し、神との一体感に感極まっているって感じだ。

わたくしは自分が薄汚れているような気がしてバツが悪く、
このバツの悪さはこの後も延々と続く。

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聖墳墓教会のまわりをぐるりと取り囲んで行列ができていて一時間待ちなので並ばず。
そのまわりにあるいろんな宗派の教会を見た。いまいち理解できず。

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イエス様が磔刑に処せられたというゴルゴダの丘あと。が、なぜ建物内にあるのか、
イマイチ理解できず。行列はなかったのですぐに見学できた。とても美しい場所でした。

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嘆きの壁は男性用と女性用に分かれていて、男性用のほうが広いんだけど、
皆壁をさわりながら泣いたり祈ったりしていて、壁の側に行くのもはばかられた。
小心者なので遠くから一枚写真を撮ってみた。

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イエス様が歩いたという苦難の道「ヴィア・ドロローサ」。膝をついたとか転んだとかの場所が
まだ残っていて、あちこちにそれが書いてあるんだが、エルサレムどんだけ町が古いんだ、って感じ。
この道をたどりながら神の子の苦難を追体験するんだろうか、信者の方々は。などと考えつつ、
一個しか見つけられなかったわたしは異教徒。

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ゲッセマネのこの岩の上でイエス様はこれから我が身に起こる苦難を考えて神に祈ったのです、
というようなことが書いてあり、この岩の前で祈る人、歌を歌う人など多数。
ペテロはどこで寝てたのか、なんて考える人はいないのかな。



3.ゲッセマネ

イエスの使徒のなかにかわいそうだと思う人が二人いる。
一人はユダ。もうひとりはペテロである。

エルサレムに行くことがわかってから、ヒストリーチャンネルで放映されていた
「イエスの生涯」という6話連続のドラマを見てにわか勉強をしていったわたくしだが、
やっぱりユダとペテロの二人にイエスがなぜあのようなふるまいをするのかが理解できない。

ユダはイエスのことがだんだん理解できなくなってローマ人のところに行ってしまうのだが、
行ったことを後悔していたところ、イエスから「裏切り者」呼ばわりされ、
「やるべきことをやれ」とか言われちゃうのだ。いつ見てもここんとこ気の毒だと思う。

ここんとこが気の毒だと思う人は他にもいて、だから小松左京氏の『百億の昼と千億の夜』では
ユダがいいもんに、イエスが悪者になっているのかもしれない。

あとペテロはまじめないい人なのに頑固すぎて実直だからかよく怒られて、
ゲッセマネでもうっかり寝ちゃって我が身を嘆いて祈っていたイエスに叱られ、
さらに「夜明けまでに3回否定する」とか気の毒な予言をされちゃうのだ。

てなことを考えてるのは異教徒のわたくしだけで、
信者の方々はイエスの嘆きのほうにスポットを当てていらっしゃった。当然だよね。

4.ベツレヘム

聖誕教会はサラッと回ったのでとくになんというか、異教徒感だけをひしひしと感じた。
セントジョージとドラゴンの像があり、TOTOの歌だなーとか思っちゃう俗なわたくし。

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洗礼地Qasr el Yahud。川向うはヨルダン。川の水は意外とぬるくて雑菌がいそうな感じ。
感染症マニアなので住血吸虫とかいたらヤダなと思ったけど、そういえばあれ
「日本」住血吸虫って名前なんだった。

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うっかり歩いて人が来ないよう軍人さんが見張ってます。
中国の人がいっしょに記念撮影をしていたので、気さくな軍人さんらしい。

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神父に洗礼してもらって喜びにあふれる信者の方々。賛美歌なのかどうか、ギター弾きつつ
やわらかな歌をずっと歌ってた女性が二人。ギター持ってきたんかなー重そうなのに。

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ヨルダン側もイスラエル側もちんまりした施設ですね。イスラエル側は洗礼用に
服を着替える場所があったけど。もちろんトイレもありました。



5.ヨルダン川

洗礼者ヨハネといえばイエス・キリストの洗礼をした人であり、
サロメ(におねだりされたヘロデ王)に首を切られた人である。

ギュスターブ・モローの絵やビアズリーのイラストで自分的にはサロメのほうが身近だが
ヨハネはヘロデ王が首を切る前にイエスの洗礼を行っていたんですよ、ビックリだ。
サロメと洗礼者ヨハネが全く繋がらなかったわたくしったら、無知ねえもう(えへ)。

川、はなんとなくだが、多摩川くらいの広さがあると思っていた。
ドラマでも多摩川くらいの大きな川だったが、実際に行ってみると規模的には野川、
というか、鳥取市内を流れている袋川が一番近い感じ。(誰も知りませんよ)

ヨルダン川の水位はどんどん下がっており消滅の危機にあるらしい。
つーことで死海の塩分濃度もどんどん上がってるらしく、今でも15分もつかっていると
体が痛くなってくるから、今後は長時間浮くのは辛くなるのではないだろうか。

イエスの洗礼地には「ここだったんじゃない?」的な場所が3箇所くらいあるそうだ。
我々が行ったのはQasr el Yahud、川向うはヨルダンのアル=マグダスという洗礼場所。
川を渡ればヨルダンだが、歩いていくともちろん捕まる。軍人さんが見張っているのだ。

川では、キリスト教の信者の方々が神父さんと一緒に来ていて、次々に川で洗礼を受けては、
一人終わるたびに拍手で迎えられ、洗礼を受けた人は涙し、それを見守りつつみんなで歌う
というのを異教徒のわたくしはぼんやりと眺め、ていていいもんかどうか非常に困った。

それよりも川の水の濁りのほうが気になり、あの人たちが結膜炎にならなければいいけど、
とか、聖なる地でそういうことしか考えられない自分ってどうよ。

というように、わたくしは巡礼地を回ることで何かを得られるのではと漠然と考えていたが、
何かはとくに得られず、神を身近に感じることもなく、ひたすらに違和感のみが残った。
違和感の理由は、今考えてみると日本の寺社仏閣とは信者の方々のふるまいが
明らかに違う、ということではあるまいか。

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ヨルダン川のイスラエル側にはイスラエル軍が埋めた地雷がまだたくさん埋まってます。
この辺に入らないでねとかいう看板が延々と立ってました。2019年に撤去、とかいう報道を見たけど
そういう雰囲気じゃなかったな。聖なる洗礼地の入り口すぐのところにこれだもの。どうなの。



日本では高野山でも比叡山でも伊勢神宮でも観光客と信者とのふるまいにあまり差はなく、
また、施設側もすべてのものを受け入れるというか、誰でも来なさい与えてあげるから的な(とくに伊勢神宮)
漠然とした寛容さがある気がする。

壮麗ですばらしい今回行った巡礼地には、そういった寛容さがあまり感じられない気がしたのは
もしかしたらわたくしの無知と思い込みかもしれないし、
もしかしたら信者の信仰心があまりにもまっすぐその場所なり聖遺物なり建物なりに向いていたため、
その真剣さに怯んでしまったせいかもしれない。

つーことで、わたくしはどこまでも日本人であり、仏教とアニミズムにまみれてるのだな、
と再認識させられたのでありました。

いつかもう一度ゆっくり行ってみて、今度は偏見なく異教徒感が感じられなくなっている
大人な自分になっていたい気がするがなれるだろうか。
サンティアゴ・デ・コンポステーラなんかは長距離で根性もついていいかもだ。

いつか行ってみたいなー。


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